水流の「季・とき」折々・・・
「季・とき」折々… 2011年 09月24日(土)

■美の本質
始めに。先日の台風で避難勧告の対象地域となった弊店をご心配頂き、各方面、各地からたくさんのお見舞いのお電話/メールを頂きました。こんな店主でもお心に留めて頂き、ご心配頂けることに驚き、また、誠に嬉しく思いました。ここにあらためて御礼申し上げます。本当に有難うございました。おかげ様で天白川の氾濫も浸水被害もなく、謹んで無事をご報告を申し上げます。
さてさて、そんな折、台風の接近に伴い、街には人通りもなく、当然ご来店のお客様もなく、開店休業となった弊店。特にする事もなく(※やる気になればやらなければいけない諸問題は山積しております、ハハ…)読書でも、と手に取った柳宗悦の著書『手仕事の日本』の日本の中に以下のような件(くだり)がありました。
“~… もしも吾々の生活が醜いもので囲まれているなら、その暮しは程度の低いものに落ちてしまうでありましょう。いつか心はすさみ、荒々しい潤いのないものに陥ってしまうでありましょう。一国の文化はその国民の日々の生活に最もよく反映されます。生活を深いものにするためには、どうしてもそれは美しさと結ばれねばなりません。もし私たちが見た色々のものが、仮に日本から消え去ったとしたら、どんなに日本の姿がみすぼらしいものになるでありましょう。固有のものがなくなって、どこにも特色のない粗悪なものばかりが殖えてしまうからであります。…” と。
柳宗悦氏の思想のすべてをその内容から推し量ることは凡夫の私には到底出来るものではありません。もっと言えば凡夫であるがゆえに理解出来ない箇所も多く、思わず首を傾げるところもありました。でも、そんな私にもひとつだけ確実に伝わりくるものがありました。それは染織を始め、民芸/美術/工芸に関する柳宗悦氏の深い洞察力、そしてそこから生まれるのであろう愛情です。そして文化や芸術は一旦絶やしてしまえばその復元は容易ではない、という当たり前の事実。
なにやら、いつものいい加減な私らしくない話題から入ってしまいました。かく言う私も染織に取りつかれている一人です。もはや、取り“憑かれて”いる(笑)と言った方が適うのかもしれません。唯、私は消費者ではなく、あくまでも着物専門店の店主の立場で着物と関わらなければなりません。要するに仕事なのです。仕事である以上、つまりは経営者である以上、商品を見る上でまず、考えなければならないのが、仕入れ→販売→収益、つまり利潤の追求なのですが、ついつい消費者と同じうっとりとした気持ちで商品となる染織を見てしまう訳です。それで良い筈はありません。冷静に冷静にと言い聞かせるのですが、ついつい過剰に反応するのです。いやな性分です。
そう言えばちょっと余談になりますが(すべて余談でしょ、と言うつっこみは不要です)先日も(昨年も)とある関係者から言われました。水流さんは店舗がおよそ立派とは言えない(四個一の長屋店舗で威厳がないため入りやすいのかも)わりに結構たくさん(と言ってもたかが知れていますが)販売されていますよね。でも、そのわりに大して利益は上がっていませんね…。 と頼んでもいないレポートまで言葉を添えて下さいました。…経営者である私の無能を改めて晒すようでお恥ずかしい限りなのですが、販売数量と利益が正しく比例していない訳です。要するに早いお話、商売が”下手”、もっと言えばあまりお利口さんとは言えないという烙印を押されていると事です。はい…。 余談終わり。
たとえばいまこのコラムを打っているパソコンのキーボードを見ていても心を奪われることはありません。マウスを見ても電話機を見ても理性が揺らぐことはないのです。こうした物の価値観はとても解かり易いとも言えます。スペック的なもので判断出来たり、あるいは使い易いとか。○○の製品がどこのお店が他よりも○○円安いとか、つまりは消費者に解かり易い、その解かり易いことに第一義的な価値があるのだと思います。でもやはりどれほど長い時間を掛けて眺めていても心が奪われることはないのです。
だからと言ってそうした産業的に作られる工業製品を否定するつもりはありません。日々は白クマ君に快適な温度を供され、何百キロも離れた人と電子メールと言う名のもとに手紙が瞬時に交換出来る生活を享受し、ユニクロのTシャツを着てGAPのチノを穿いたりもしている訳ですから。要するにそれらの製品はある意味もっともドライな価値基準で判断されるものなんだと思います。こうしたことからも産業的に作られるもの、と嗜好的な工芸品とは違うことが判ります。それだから尚、なのでしょうか、染織と言う手工芸の極み、もっと言えば凄みさえ感じさせられる工芸品に心が奪われるのかしれません。
産業製品とはある意味ひとの顔色を窺って作られていると言えるのかもしれません。いえ、窺わなければ、熾烈な競争に加わることも出来ません。顔の見えない不特定多数から、たくさんの支持を得なければならない訳です。でも翻ってパブロピカソがひとの顔色を窺って作品を描き上げたとは到底思えないし、長澤芦雪が現代人の評価を期待していた筈もないのです。
つまり、私が染織に惹かれる最大の理由は制作者のエゴイストとも思える独善的な創意の塊に惹かれているのかもしれません。格子は定規で引かれた線の交わりなのでは決してなく、製作者の美意識が交差した軌跡なのです。美しく発色した紺碧の海のような藍もその日その時に生命が宿された藍なのです。人が変われば藍はその表情を変えるのです。ある種、究極の偶然の産物だと言っても過言でないのかもしれません。美意識を研ぎ澄まし、さらに研ぎ澄まし、繰り返した渾身の一期一会の彩色なのです。ある意味エゴ以外の何物もないのです。そのエゴが見る人の美意識を揺さぶるのだと思うのです。私がこうしたエゴの塊でもある染織に惹かれるのは私がそうした意味の純粋なエゴを持ちえない単なるエゴイストだからかもしれません。一日中眺めていても苦痛ではないのです。
ほんの昔ならば繁華街で理性が揺らぐこともありました。揺らぐと言うよりもすっ飛ぶとの表現の方が適うのかもしれません。この歳になると揺らぐこともないと思います。と言うか、ないものは揺らぎようがありません。でも…、美しい染織を見るとやはり失った筈の理性が揺らぐのです。もちろん商人の端くれですから算盤も同時に揺らぎ始めます。ふむふむ…○×△※ёёё… あーー、そう言えばどこかの誰かえらい人が言ってました。”もし、あなたが資産家になりたいのなら「語るなかれ」”… 沈黙は金、雄弁は銀とも言いますね。これだけペラペラペラペラ語った挙句の果てになんですが、多くは語りません。
添え書き。。。あと少しだけ。こうした染織の世界に関心を持たれ、きもの専門雑誌を見られたり、インターネットで着物に関する事を検索されますと実に多くの染織家/染織作家がいることが分かってくるかと思います。でも私はいつも申し上げるように基本的にそうした高名には目を向けないようにしています。 人間国宝の○○氏の制作であるから、とか重要無形文化財の指定技術によって織り上げられた、とかの言葉に、です。それらの高名はそれとは知らず、自分の目で見て、手で触れて、思わず喉から手が出そうになってから、そうとは悟られずに聞くべきと常々思っています。見る前から、そうした肩書に判断を歪められることは私の本意でありませんし、染織に詳しい知識を持たない私などはメガネが曇るばかりで、そのものが保つ美しさの本質が見えてこなくなるだけなのです。
【掲載画像について】
やわらかでありながら確りとした質感の紬地に極めて丁寧な手描き友禅で更紗が描かれています。そしてその上に美しい刺繍が施された九寸名古屋帯です。染織作家の作品ではありません。京都の一介の古老職人の制作です。美しさは決して高名から生まれるものではないことがわかります。 価格は¥259,300です。ご参考までに。。。※「SOLD」ありがとうございました。9/25日17:05分加筆
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